里山~人と自然のかかわり

里山とは、自然の恵みを活かしながら人々の生活が営まれてきた場所です。
例えば、昭和40年頃までは緑区でも薪や炭が生産・販売され、日常生活に利用されていました。
そのために、雑木林は適切に手入れされ、落ち葉は堆肥として活用されるなど、
無駄のない資源の循環が行われていたのです。
また、スギやヒノキは家を建てるための重要な木材であり、竹林は筍生産、籠(かご)や笊(ざる)といった
生活用品を作るために欠かせない存在でした。ススキ原は、茅葺屋根を作る上で重要な役割を担っていました。
このように自然と深く結びついた暮らしの中では、祭りなどの伝統行事も大切にされ、
人々の繋がりや祈りの場が育まれてきました。
しかし、高度経済成長期に入ると、電気やガスの普及によって薪や炭の利用は減少し、
スギやヒノキは安価な輸入材に押され、森林の手入れは行き届かなくなっていきました。
その結果、手入れのされていない暗い森や藪が増え、人々が近づかなくなってしまったのです。
新治・三保市民の森は、かつての里山の面影を残し、その風景を今に伝える貴重な場所です。
多くの方が里山の再生に向けた手入れをすすめ、人と身近な自然とのかかわり方について見守っています。

                 雑木林の管理サイクル

谷 戸

横浜市緑区は、八王子から横浜市南部へと続く多摩丘陵の南西に位置しています。
区内で最も標高の高い地点は、長津田辻の高尾山で100メートル。
緑区の中央部を横断するように恩田川が流れ、その支流である梅田川は、新治市民の森や三保市民の森を水源としています。
「谷戸(やと)」とは、水の流れが大地を削り、細長く谷が連続する地形を指します。
旭谷戸、鎌立(かまだち)谷戸、常見(じょうけん)谷戸などが新治市民の森の中にも見られ、
区内ではバス停の名称としてその名残をとどめている場所もあります。
縄文時代から、谷戸の丘陵部は人々の住居として利用され、長い間、薪や炭を生産するための雑木林や、
野菜などを栽培する畑(かつては絹を生産するための桑畑があった時期もあります)、
そして谷部は水田として活用されてきました。
1960年代の高度経済成長期には、大規模な住宅開発や工場建設が進められましたが、
恩田川沿いでは今でも田畑の耕作が行われ、源流域は公園や市民の森として整備され、
多様な生き物を育むかけがえのない場所となっています。

新治町一帯の緑地の変遷